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太陽光線を悪者扱いにするため、様々な病気・怪我で苦しむ事となります。それを解消するための”光線治療”です。
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乳癌
 
自宅で乳がん消滅!!
 
青森県○○市
○村 ○美○
 
 平成八年四月に我が家に“光線治療器”がやって来て、コツコツ家族で照射していました。平成九年の暮れに一般検診を受けたところ、右胸に九ミリの“しこり”が見つかり、直ぐ病院で検査を受けるように言われました。
 この時“まさか、・・・私が・・・癌だなんて・・・”もう頭の中が真っ白になり、将来の事を考えると不安で不安でたまりませんでした。病院の検査結果が出るまでは一日一日が長く、言葉では言い表せない思いでした。
 幸いにも“光線”を愛用していましたので、光線による集中治療を選択するまでは、そう時間を要しませんでした。とわだ光線治療院の指導を頂き、平成十年一月二十一日より自宅にて治療を開始しました。始めの一週間は長時間の照射でクタクタに疲れていましたが、次第に体が慣れてきて、一日四時間、五時間の照射が出来るようになりました。
病院の三ヵ月検査で若干の縮小が認められ、その以後の光線照射の大きな励みになり、生きる希望が沸いてきました。そして六ヶ月目の検診の時には、ガン細胞は確認できませんでした。もう嬉しくて嬉しくて、半年前に悩んでいた事が嘘のようでした。あれから二年経ちましたが、予防の為に“光線”をかけているお陰で、再発は確認されていません。今では家族全員が光線の愛用者となっています。
 
とわだ光線治療院“ひなたぼっこ”より
照射内容(H10年1月21日より六ヶ月間)
使用治療器 : 三台
使用カーボン : 緑カーボン三十五箱・赤カーボン十箱・黄カーボン二十箱
照射部位及び時間  : 朝 顔(赤・黄)肛門(赤・黄)足裏(緑・緑)三十分
            午前 足裏、膝表・裏、足の甲、ふくらはぎ、腹・腰(緑・緑) 六十分
               右乳房を胸部と背後から(黄・黄)足裏(緑・緑) 六十~百二十分
            午後 午前に同じ
   乳ガンの知らせ後に、病院での癌の処置と光線療法による免疫UPの説明をし、自宅で家事炊事をしながら空き時間に出来る光線治療に賛同していただき、ご本人の努力で勝ち取った乳がん消滅でした。
 
 
 
上記は、全国光線普及協会編集・発行の光線療法体験集掲載分です。もっと詳しくお知りになりたい方は当方までご連絡下さい。
 
悩んでいないでご相談下さい。
 
2007/10/09
サンフォートピア
光 線 治 療 院
E・メール  info@kousenchiryouin.com
ブログ“ひなたぼっこ”  http://ameblo.jp/kousenchiryou/entry-10037893555.html
 
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乳癌・糖尿病
 
二病息災となって
 
神奈川県○○市
○島 ○○子 五十三歳
 
 二年前の私の手帳には、まるで嵐のような闘病の毎日が綴られています。一九九八年一月十九日、初診で乳がんの告知。右乳房全切除の診断でした。愚かにも初期の段階を見逃し、自分の死というものが突然目の前に迫った現実に動揺しながらも、友人より初めて聞かされたのが“光線療法による治療”でした。私は、この病を回復させるこの上ないチャンスに巡り会う事が出来たのです。
 私の西洋医学での治療は、強い抗がん剤エピルビシン四回(副作用で髪は全て抜け、白血球減少、嘔吐、爪の黒変、下痢、その他)、部分切除による温存療法、基本的抗がん剤CMF八回、患部への放射線照射二十五回という完璧なものです。初診で全切除との診断を受け、他の乳腺専門医の意見(セカンドオピニオン)を求めた結果、信頼できる医師」と治療法に巡り合えたのも大きな幸運でした。私の選んだ道はこの西洋医学の恩恵で緊急な手術と化学療法を受け、併せて“光線療法”による副作用に負けない体力と再発・転移を防ぐ事でした。何が何でもこの病をねじ伏せて、がんから逃げ切ってみようとの一心でした。
二月十九日の抗がん剤点滴前は元より、その後も、横浜の自宅から「こだま」で茂木先生の治療院に週二、三回のペースで通いました。また、やがて通院不可能となる事を考えて自宅に治療器を三台備え、指示して戴いた通り毎日一時間患部に緑・黄、腰に緑・赤、足元に緑・緑を照射しました。「大丈夫、手術・抗がん剤に充分耐えられる身体になります」と茂木・畑澤先生の自信に満ちた励ましに、あれほど青ざめていた私も呑気に旅行気分を楽しむほどになりました。
抗がん剤の副作用は、やはり髪が全て抜けてかつらの着用となり、白血球の減少、嘔吐というものでした。しかしどうも私の副作用は他の患者さんに比べて軽い様なのです。入院し点滴を受ける方もいますが、私は四回とも通院で過ごし、二回目からは吐き気のみで普通に家事をこなし、主治医からも「副作用に強いほうですね」とお褒めの言葉(?)を戴きました。日常生活も白血球が半分となり感染が心配されましたが、風邪一つ引かず至って元気に過ごす事が出来ました。“光線療法”による体力作りが功を奏したのです。
続いて温存療法の手術も終え、とりわけ暑かった夏も順調に過ごし、CMF療法も終わりに近づいた十月、これまでにない異変を身体に感じました。血糖値387、ヘモグロビンA1c11.8%、糖尿病の発症でした。隠れていた糖尿病因子は“光線療法”といえども強烈な化学療法には耐えられなかったのでしょうか。放射線治療の途中で今度は内科病棟に糖尿病治療の教育入院です。それでも自分の人生の総決算を覚悟した私には一生続くこの治療はむしろ易しく思われました。肝心の乳がんの方ですが、今出来る最良の治療は全て受けたのですから“後は運を天に任せておけば良い”とすっかり心が決まっていました。そう思えたのは、何より私には“光線療法”という力強い味方があったからです。
よく乳がんは治りやすいがんと言われますが、完治宣言は五年ではなく二十年と言われます。また、糖尿病も危険な合併症を引き起こす厄介な病です。しかし、健康な時は全く思いもよらなかった事ですが“私も必ず死ぬ”というこの当たり前の現実を教えてくれたのも“がん”なのです。私はこの病に感謝し二ヶ月に一度の血液検査で健康状態を常にチェックする“二病息災”のなかなか良い人生の後半を過ごせそうです。のんびりと、焦ることなく光線と歩んでいきたいと思います。そして二十年後、今より更に健康に過ごしている私は、きっと素晴らしい“光線療法効果”をお話し出来る事と思っております。
嵐の中、私の回復を支えて下さいました皆様に心から感謝申し上げます。
 
上記は、全国光線普及協会編集・発行の光線療法体験集掲載分です。もっと詳しくお知りになりたい方は当方までご連絡下さい。
 
悩んでいないでご相談下さい。
 
2007/10/09
サンフォートピア
光 線 治 療 院
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子宮がんを発見、そして克服
 
大分県○○市○○町
永○ ○恵
 
 平成十年八月に交通事故にあい、幸いにも左親指の靱帯を痛めただけでしたが、カナモリさんで光線治療の事を知り、週一回の割合で全身治療を受け、指の痛みを取るつもりでした。怪我の方は良くなったと思った矢先、十二月末に不正出血し、すぐ病院へ行ったところ、頸がんのAと診断され、平成十一年一月入院、子宮卵巣を摘出しました。病院を見回すと同じような人達、それもリンパまでがん細胞が広がってがん治療を受けているのです。
 がん治療特有の頭髪が抜ける、食事を全く受け付けなくなる、少しでも食べると嘔吐する等苦しい治療を繰り返し続けて頑張っておいででした。
 私も皆さんと同じ症状なのに、皆さんと同じがん治療(抗がん剤治療)を受けていない私に「なぜ?」と聞かれました。よく考えてみると、気付かぬまま光線治療を三ヵ月続けたおかげで病気も早く見つかりがん細胞もリンパまで進行せずにいたのではないかと思います。退院後も週一回の光線治療をと心掛け健康を願ってきました。
 お陰様で今後の治療は不要のお墨付きを頂くほど元気になりましたが万全を期するため月一回の検査はすることになりました。病院の先生からも「大丈夫、がん細胞は全くありません」と太鼓判を押して頂きました。
 これからも“若さ”と“健康”を保つために“光線治療”は私にとって切っても切れない仲になりそうです。
 
 
 
 
上記は、全国光線普及協会編集・発行の光線療法体験集掲載分です。もっと詳しくお知りになりたい方は当方までご連絡下さい。
 
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2007/10/06
サンフォートピア
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乳ガン

福島市
○○ 京子

 平成11年9月30日、知人の紹介で太陽光線治療に出会いました。私は早速、二谷(ふたつや)先生にお会いし、お話を聞きました。今までにほとんど聞いたことがない、自然治癒、ホリスティック(全体的)治療のお話でとても関心を持ちました。私は貧血で何年も薬の副作用に悩まされていたので、光線治療を体験しようと決意しました。その後、二回三回と通い続けていた頃の平成11年10月8日胸部に異常を感じたのです。これはただ事ではないと思い、総合病院に駆けつけて検査をしました。その日はレントゲン撮影の結果報告のないまま帰されました。

 二ヶ月が過ぎた平成11年12月25日「精密検査の必要がある」と言われ平成11年12月28日大学病院を紹介されました。その時、私の家族には一人として癌になった人がいなかったので、自分がまさか癌だとは考えもせずに、軽い気持ちで大学病院へいきました。

 第二外科に案内され私は総合病院から預かってきた、レントゲンを先生に差し出すと「検査するまでもないですね、間違いなく乳癌です。来年1月4日に入院してください」と言われました。癌と言えば抗癌剤・・・。やはり抗癌剤に対する恐怖心が強かったので、私は光線治療で改善しようと入院を断りました。

 ところが私の身内には臨床検査技師、薬剤師、看護婦と医療関係に携わる者ばかりで、手術を拒否したことに対して猛反対でした。私も光線治療に対する知識不足もあり又、一人で生活を支えていた事もあって自分自身も不安になり、二谷先生に相談したところ「どうしても不安なら最小限に手術をし、手術後は病院を抜け出しどんどん光線をかけなさい。それから入院前も沢山光線をかけて行きなさい」と指導していただき、一日6時間光線をかけ続けました。

 平成12年1月11日いよいよ大学病院に入院しました。一週間は手術のための検査です。私は手術の前日、主治医に「手術は最小限にお願いします」と伝えました。平成12年1月18日、いよいよ手術の日がきました。麻酔をかけられた後は何も分からないまま手術が終了し、気が付いた時には病室に戻っていました。結局は左手のリンパ節を全摘出され左乳房は温存手術でしたが、鉄板のように硬く、手は全く上がらない状態でした。早速手術の結果を二谷先生に報告しました。先生は「心配なことがあったらいつでも電話してくるんだよ、頑張るんだよ」といつでも励まして下さいました。手術後、三日目外出準備に入りました。

 1、2月といえば、一年で一番雪の降る月です。この年は例外になく雪が多い年で、左手にリンパ液と血液を流す管を入れたまま左手が動かない状態で、コートで隠し、病院の先生には「仕事が忙しい」と嘘をついて、金・土・日の週末は光線治療のために帰宅しました。早速、管を入れたまま光線をかけました。すると驚いた事に、管を押さえているガーゼが絞るほどに濡れました。そしてあっと言う間にリンパ液が出なくなったのです。この時太陽光線の力に驚きました。その後病院での回診の時、主治医達と一緒にいた、医大生が私の所に来て「○○さんはすごく治りが早いけど何故だ、普通なら管が抜けるまで、二週間はかかるんだが、一週間も早いと主治医達が言ってましたが何か別の治療をしていますか?」と聞かれ太陽光線の話をしたところ、早速医大の図書館に行って調べてくれたのです。それは英語で書いてあったので訳し、丁寧に説明して下さいました。

 「太陽光線は外国では取り入れられている良い治療ですので頑張って続けて下さい」と励まされました。

 退院の日が近づき、放射線治療を受ける事ことになりました。入院している以上放射線を受けなくてはなりませんでした。嘔吐、手足のしびれ、下痢などの副作用がひどく血小板、白血球が激減したため、沢山の薬を出されましたが、一切飲みませんでした。退院後の治療としては正直言って光線治療だけで大丈夫か不安でした。でも二谷先生はいつも本気で患者さんを心配してくださいます。その言葉を信じてついていこうと決めました。薬を一切飲まないで先生の食事の指導と光線治療で五年を迎えます。今では風邪をひかず疲れも知らない、元気な生活を送っています。

提供
共栄器材株式会社
太陽光線治療院
 
上記はサンフォートピアニュース 平成16年7月1日掲載分です。もっと詳しくお知りになりたい方は当方までご連絡下さい。
サンフォートピアニュースも販売しています。(年会費1,000円 4回/1年発行)


2007/07/07
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